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空腹×仏教

「空腹」のススメ

*本記事は2017/09/10に甲府市総合市民会館で行われた『寄僧』(山梨県曹洞宗青年会主催イベント)での法話を一部修正して掲載したものです。

 本日は「空腹のススメ」ということでお話させていただきたいと思います。坐禅と空腹、あまり関係ないように見えますが、じつは「空腹」であることは坐禅をするうえで非常に重要なんです。さきほど皆さんに坐禅をしてただきましたけれども、少しの時間坐っただけでも心が落ち着いて、気持ちが楽になった人もいると思います。ほんらい仏教では坐禅をする準備段階として、身につけておくと非常に坐禅の助けになるいくつかの「良い生活習慣」というものがあります。喩えるなら坐禅を支える何本かの「柱」のようなものです。この「柱」があれば、ほんの少し坐禅をしただけでも、心の統一された「禅定」とよばれる状態を得やすくなります。逆に、この柱がない、悪い生活習慣ばかりをもっている人にとっては、すこし坐禅をしたくらいではなかなか心が穏やかになりません。良い生活習慣というのは、坐禅をするうえで重要な支えです。

 たとえば「楽寂静」という柱があります。これは沢山の人間関係をもつよりも、ひとりで静かに過ごす時間を好むという意味です。他にも、坐禅の助けとなる「良い生活習慣」があります。たとえば「少欲知足」「汚い言葉づかいをしない」「腹を立てない」などがあります。こうした生活習慣を身につけていれば、たとえ坐禅していない状態でも、心静かに坐禅してるのと同じような状態でいられるようになります。そして今日、わたくしがおススメするのは「空腹」です。一日に食べる量を少なくして、間食をなくし、空腹を感じることは、仏教徒として非常にすばらしい生活習慣であると同時に、心も体も健康になり、坐禅をする上でもおおきな助けになります。

 ここでミャンマーやスリランカのお坊さんの食生活を見てみたいと思います。朝、托鉢にいって、これくらいの鉢とよばれるボールをもって、街を歩いて食べ物を入れてもらって、お寺に戻って食べます。早朝と、お昼に食べた後は、翌日の朝までなにも食べません。スイカとか、果物とか、お菓子くらいは許されるらしいですが、18時間ほど胃腸が空っぽの状態です。ただし、あちらのお坊さんは作務というものをしません。服を洗ったり、庭を掃除したり、料理を作ったり、畑を耕したりといった労働はお手伝いさんに任せて、一日中木の下で瞑想だけしていられる、そういう環境ですので一日二食だけで十分なんです。

 一方で禅宗、わたくしたち曹洞宗の修行道場では一日三食です。永平寺や総持寺など修行道場では、修行僧たちが一日中激しく動き回って修行してますので、とても一日二食では足りません。夕方に「薬石」つまりお薬をいただくという意味で食事をとります。曹洞宗では、坐禅だけではなく、廊下を拭くのも、野菜を斬るのも、お風呂に入るのも、トイレに入るのも、お経を読むのも、日常のすべてが大切な修行だと捉えます。そして修行がそのまま悟りであるというのが曹洞宗の考えです。

 簡単に修行道場の一日を説明しますと、まず四時に起床してすぐに暁天坐禅といって坐り、そのあとお寺の本堂にいって朝課をします。わたしが修行道場にいたころは、よく朝課のあとに全山作務といって、すぐに作務衣に着替えて箒で広い山内を掃除しまして、そのあとようやく8時か9時頃に小食、つまり朝ご飯をいただいてました。小食をいただいて、すぐに廊下を雑巾がけしまして、お昼まではそれぞれの寮舎で当役をこなし、中食、お昼をいただいて、また廊下を掃除して、本堂で晩課をして、薬石つまり夕食をいただき、そしてお風呂、夜座をして就寝という流れになります。

 薬石から翌朝の小食まで16時間くらい何も食べられません。食事の内容は、みなさんご承知のように精進料理ですので、朝はお粥にごましお、たくわん、中食薬石はお米、みそ汁にゆでた大根やごぼうなど、非常に質素で量も少ないです。ミャンマーのお坊さんと違って、修行僧はものすごいカロリーを消費しますので、実際は一日三食といってもとても足りない量です。特に初めのころは、ものすごい空腹に襲われます。食べる物が無いので、みんな自分のからだを燃やしてエネルギーにします。わたしの友人は一ヶ月で五十キロ痩せましたし、わたしも十キロほど減量しました。考えてみますと、わたしたち現代人は子供のころから食べ物に溢れた豊かな暮らしをしていますので、生まれて初めて「空腹」を実感する、非常にいい経験だったと思います。

 現代は「飽食の時代」といわれます。飽食というのは書いて字の如く、飽きるほど食べ物がある、という意味です。一日三食おなかいっぱい食べるだけではなくて、間食でお菓子をたべたり、夜遅くまでお酒をのんで胃腸が休まる暇がない、そういう人が多いのではないかと思います。人間が一日三食を消化するエネルギーは、フルマラソンを走るエネルギーに匹敵するといわれています。食べ物を消化するだけで、それくらい大量のエネルギーを使います。少食を実践して、必要な分だけ食べていれば、だいたい5、6時間ほどで胃腸が空っぽになります。消化にエネルギーを使わないかわりに、体中の壊れた細胞を修復する「代謝」にエネルギーをまわすことができます。風邪をひいたとき、よく「すり林檎」や「おじや」など胃腸にやさしいものを食べますけれども、あれは消化になるべくエネルギーを使わないことで、体を修復にエネルギーをまわしているんです。非常に理にかなってます。

 お釈迦様は経典のなかで繰り返し「食べ過ぎてはいけない」と言っております。自分のからだに必要なだけの食事をとって、食べ過ぎないこと。大般涅槃経というお経のなかには「一切の疾病は宿食をもって本となす」と書かれています。宿食というのは宿便とも言いますが、食べ過ぎて消化しきれなくなった食物が腸に溜まることです。むかしから「宿便は万病のもと」ともいって、ガンや脳卒中、肥満、糖尿病、アレルギー、睡眠障害、体のだるさなど、食べ過ぎはあらゆる病気の原因になります。逆に言えば、少食を実践し、間食をやめて、しっかりと空腹を感じるような食生活を送っていれば、心身ともに健康に過ごせるようになります。仏教と非常につながりの深いヨガにもこんなことわざがあります。「腹八分目で医者いらず、腹六分目で老いを忘れ、腹四分目で神に近づく」。いつでも自分のからだに必要なだけ食べて、心も体も健康な状態が、坐禅するのに最も適した状態です。

 そうは言っても、少食の実践はなかなか簡単にできるものではありません。どうしてでしょうか。どうしてわたしたちは食べ過ぎてしまうのか。ひとつには「習慣」ということがあります。一日三食、満腹になるまで食べることが習慣になってしまって、それを変えることができない。たとえば夜遅くまでお酒を飲んで、翌朝胃腸が荒れて食欲が無いのに、朝食を食べないと力が出ないからと、むりやり詰め込んで出勤するということがあります。習慣をかえるのは非常にむずかしい。また「世間体」というのもあります。外食してもうお腹がいっぱいなのに、人目を気にして残すことができない。また上司や友人に食事や飲み会に誘われて断ることができない。これはさきほどの「楽寂静」にも通じるところです。また「ヒマ」というのもあります、タバコと同じで、なんだか口が寂しいから食べてしまう。こうした様々な理由から、ついつい食べ過ぎてしまう、自分に必要な量をはるかに超えて食べてしまう。そこからガンや脳卒中、糖尿病などあらゆる現代病が現れてきます。

 わたしたちはどうして食べるのか、もういちどよく考えてみたいと思います。どうして食べるのかというと、それは「生きるため」です。生きるために食べる。自分の食べた物が胃腸で消化吸収されて、それが血液に運ばれて、私たちの全身の細胞を修復しながら入れ替わっていく。これが「食べる」ということです。ですのでお釈迦様の「自分に必要なぶんだけ食べなさい」という教えを、ぜひ実践していただきたいと思います。そうすれば万病を防ぐだけでなく、心も体も健康な状態で坐禅ができるようになると思います。まずは食事の量を減らし、間食をやめて、空腹を実感していただきたいと思います。ご清聴ありがとうございました。


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